コンサートの録音のビアンドール

社長の一言ブログ

SQ±第2回演奏会
7月13日に、すみだトリフォニーホールで行われたSQ±第2回演奏会を録音してまいりました。2月に行われた第1回演奏会と同様の、ストリングス・カルテットを中心とした演奏会ですが、通常のクラシックの演奏会と違い、オリジナリティーなコンセプトの感じられる楽しい内容でした。第2回演奏会のコンセプトは楽曲にアレンジメントをほどこしたものです。私も数多くのクラシック系のコンサートを録音してきましたが、オリジナル曲にアレンジメントを加える発想は初めてで、「次はどのような展開になるのだろう?」と興味深く聴く事が出来ました。録音は前回はAKG414マイクを客席にステレオで設置して録音したのに対して、今回は開場の3点吊りマイクを使用しました。球体の形をした珍しいワンポイント・マイクで、奥行きと空間が非常にリアルに表現される特性を感じられました。引き続きSQ±の活躍に期待されます。
2011/7/15

国際セラピードッグ協会
本日、国際セラピードッグ協会の代表でいらっしゃる大木トオル氏のお誘いで「ふれあう会」を見学してきました。賢くて愛くるしいセラピードッグたちの紹介からはじまり、セラピードッグの活動や、日本のペット事情の問題点など幅広く説明がありました。日本では心ない飼い主に捨てられ、殺処分になる犬やネコたちが後を絶ちません。国際セラピードッグ協会はそんな捨てられて殺処分になる寸前の犬を救済してセラピードッグに育てています。訓練を受けた犬たちは各地の老人施設などで働らいています。またセラピードッグは困っている人間を助けるだけでなく、自分たちの仲間(犬)も救済します。素晴らしい事です。開場に来ていたみなさんは、感動の涙をながしていました。説明会の後、大木氏にお会いしました。大木氏は優れたミュージシャンでもあります。現在はニューヨークと東京を行き来する多忙な毎日をおくっているそうです。私は音楽関係の事はもちろん、セラピードッグの活動に関しても協力をおしまない事を約束して別れました。大木氏は4月9日にライヴを行います。ご関心のある方は是非一度、国際セラピードッグ協会のホームページをご覧下さい。
http://www.therapydog-a.org/
2010/4/3



フォデラ・ベース
先日、鎌倉にあるダフネというライブハウスを訪れました。河原さんというべースの方のライブで、奥様がヴォーカルをされていました。河原さんはバークリー卒業で私の先輩にあたります。ミュージシャンはベースの他にピアノとドラムスのシンプルな構成です。奥様のヴォーカルも素晴らしかったですが、曲間のおしゃべりが楽しかったです。もちろんライブ全体のクオリティーも素晴らしかったです。お客さんも満席でした。
ベースの河原さんはアップライト・ベースをメインに使っていましたが、たまにエレクトリック・ベースに持ち替えていました。そのベースが写真のフォデラ・ベースです。大変に珍しいベースです。ベース本体に使用されている木材は、アメリカの五大湖に沈んでいた古代の流木から作られたそうです。
2010/3/27


フォデラ・ベース
フォデラ・ベース

伊東たけしライヴ
2月26日と27日にコットンクラブにてT-SQUAREのサックス・プレイヤー伊東たけしさんのライヴを録音してまいりました。今回はコットンクラブにMオーディオのマルチ録音設備が備わっていた為、初日だけ16チャンネルのマルチ録音をしました。演奏は豪華なメンバーで素晴らしいものでした。伊東たけしさんのプレイはもとより、トランペットで参加していたLuis Valleさんの演奏も素晴らしかったです。しかし、コットンクラブのPAが会場の立地条件の為か低音域が左に偏っていて録音に苦労しました。T-SQUAREは5月に新しいアルバムを発売するようです。こちらも楽しみです。
2010/2/27

奇跡的な出会い
私は車が大好きです。昔はポルシェ911カレラに乗っていました。その後ポルシェのチューン・メーカーのRUFに乗り、最近まではメルセデスのW211E320に乗っていました。しかしかねてからメルセデスののE500に乗りたいと思っていました。ミディアムクラスのボディに5000ccのV8エンジンを搭載した車です。あと4年後くらいのうちに中古で探そうと思っていました。この物語はここから始まります。私がバークリー留学時代にフェンダーのジャズベースを使用していた事は以前のブログで書きました。その時代に部品を一部交換してあったのですが、その時交換して残ったオリジナルの部品が、昨年末の大掃除をしていた時に出て来たので、インターネット・オークションに出品しました。その部品はすぐに落札されました。その落札者が名古屋で中古車の販売を行っている社長さんだったのです。そこで私は、私が車好きで過去にこんな車に乗っていて、今はメルセデスのE500に乗るのが夢です、と伝えた所、偶然にもE500のリミテッドバージョンがあるよ、と返事が返ってきました。E500のリミテッドバージョンはメルセデスがポルシェ社と共同開発した世界限定でたった500台だけ生産された幻の車です。私は言うまでもなく飛びつきました。翌日に名古屋へ行き契約しました。エンジンは5000ccの315馬力、トルクが50Kgあるモンスター・マシンです。フレームはポルシェ社が設計したものです。私はE500のノーマルは見た事がありますが、世界限定500台のリミテッド・バージョンはネットや本でしか見た事はありません。話によるとドバイに200台ほど輸出され、日本にはおそらく80台ほど輸入されたそうです。ほんの小さなベースの部品を私の気まぐれでネット・オークションに出品したのがきっかけで、この車に巡り会えました。まさに奇跡的な出会いです。
2010/2/21


W124E500リミテッド
W124E500リミテッド

すみだトリフォニー小ホール
日付が前後してしまいましたが、2月2日にすみだトリフォニー小ホールでコンサートの録音をしてまいりました。主催はSQ±の言う一見なんと読むのか分からないタイトルですが、、エス・キュー・プラス・マイナスと読みます。これはストリングス・クァルテッド(弦楽四重奏)のプラスとマイナスつまり、弦楽四重奏から弦が増えて六十奏になったり、デュエットになったりするコンサート形式の演奏と言う意味からつけられたそうです。当日はモーツァルトのディベルティメント(弦楽四重奏)、パガニーニのバイオリンとチェロのための二重奏曲、最後にブラームスの弦楽六十奏曲の3ステージでした。すみだトリフォニー小ホールは音響も良く、とても良い音で録音する事が出来ました。ステージはカラフルな衣装を身にまとったかわいらしいお嬢様達が演奏し、とても華やかで楽しい演奏会でした。次回のSQ±の演奏会は同じすみだトリフォニー小ホールで7月13日(火曜日)に行われる予定です。
2010/2/13


画像に私のマイクAKG414が写り込んでいます。
画像に私のマイクAKG414が写り込んでいます。

チャカさんのライブ
2月28日、中目黒の楽屋というライヴハウスで、元サイズのヴォーカルのチャカさんのライヴを録音してきました。メンバーはヴォーカルにチャカさん、ベースに渡辺貞夫さんのメンバーであるコモブチ キイチローさん、パーカッションにオルケスタ・デ・ラ・ルスのカルロス菅野さんの3名です。コモブチさんは以前T-SQUAREのベースを担当していた事もあり、久しぶりの再会でした。前述したように、ベース、パーカッション、歌と言った変則的な編成です。ベースのコモブチさんが6弦ベースを使い低音と中音域をアルペジオでギターのように演奏していました。当日は、お客様が満席で、とても良いライヴでした。録音も上手く行きましたが、契約上の問題で、公開出来ないのが残念です。チャカさんのアルバムは私が2枚ほどプロデュースしました。ご興味のあるかたは、チャカさんのライヴ会場で入手するか最寄りもレコード店にご注文下さい。あるいは制作事務所ヴィレッジ・ミュージックに直接お問い合わせ頂いても対応して下さるはずです。
アーティスト名は本名のMami yasunori で発売されています。
2010/2/6
1)Chaka Jazz VRCL3030
2)LOVE VRCL3035


左からチャカさん、コモブチさん、カルロス菅野さん
左からチャカさん、コモブチさん、カルロス菅野さん

Village Studio
私は以前Village-Aという音楽制作プロダクションに勤務していた時期があります。Village-Aとはソニーの傘下にある制作プロダクションで、代表的なアーティストとしてT-SQUAREがあります。T-SQUAREは以前フジテレビ系列で放送されていたF1のテーマ曲「TRUTH」と言えば思い出される方も多いと思います。私はT-SQUAREの制作プロデューサーを10年ほど勤めました。数多くの海外録音も行っており、さまざまなエピソードがあります。その件につきましては、あらためてブログに書きたいと思います。その音楽制作プロダクションVillage-AはVillage Studioという録音スタジオを所有していました。決して広いスタジオではありませんでしたが、ドラムスや弦楽四重奏なども録音出来る素晴らしいスタジオでした。録音機材は全てLAから輸入したもので、マニアにはたまらないヴィンテージの機材がたくさんありました。しかい悲しい事にVillage Studioが今週でクローズになってしまいます。理由は、私は外部の人間なので知りませんが、私が勤務していた時にコツコツと機材や音響を微調整していたので大変心苦しいです。録音に使用するコンソールといって、いわばスタジオの心臓部にあたる機器の事ですがVillage StudioはイギリスのSSL社の9000Jという最新のものを導入していました。その機器の導入設計を行ったのも私です。9000Jは究極のコンソールといわれ、ナチュラルで、使いやすく、大変優れたコンソールです。現在日本に数台しか現存していないと思います。
2010/1/30


Village Studio 中央に映っているのがSSL社の9000J
Village Studio 中央に映っているのがSSL社の9000J

ギター購入
私はミュージシャンではありませんが、学生時代はバンドを組み、最優秀ギタリスト賞を頂いた事もあります。バークリー在学時代はベースをやっていた事は以前のブログで紹介しました。昨日、玉川高島屋で楽器フェアをやっており立ち寄ったところ、ほとんどが50%オフになっていました。その中で、2本のギターに目が止まりました。1本はギブソンのレス・ポールで、もう1本はフェンダーのストラト・キャスターです。最初は見るだけで「いいなあ~」と思って帰ったのですが、一晩たって再び訪れてみると、やはりその魅力は大きなものでした。私はさんざん迷ったあげくに、なんと2本とも購入してしまいました。どちらもヴィンテージを忠実に再現したもので、大変美しいギターです。お店の方に何度も交渉して、ずいぶんとお安く購入する事が出来ました。特にギブソンはボディーの木目が美しく、もはや美術品の領域に達していると言っても過言ではありません。
2010/1/18


ギブソン・レス・ポール VOS
ギブソン・レス・ポール VOS

音川英二(テナー・サックス奏者)
1月12日に大泉学園にありますライブハウス「インエフ」というところでライブの録音をやってまいりました。
音川英二さんとはBerklee時代からの親友です。音川さんは笹路正徳氏のプロデュースによるアルバムをリリースした事で有名です。当日の東京は寒波にみまわれ大変に寒かったです。ライブは20時からのスタートでしたが、私はその日のためにポータブルのカーナビを買ったのですが、初めて使用したので操作の仕方がわからなく結局道に迷ってしまい、当着したのは本番直前でした。私はあわてて録音機材を組み立て、狭いスペースでしたが、AKGのマイクをセッティングして録音に入りました。セッティングは「コンサート録音の機材」ページにご紹介している通りKOGR MR-1000とTASCAM DP-P1を2台回しそこからARTのファンタム電源48VをAKGのマイクに供給します。その日の演奏は、さすが音川さん、すばらしいパフォーマンスを見せて下さいました。録音の方は、メーターの視覚的確認やヘッドフォンのモニター上では問題ありませんでした。帰り道、私は再び道に迷い、結局自宅に到着したのは深夜2時を回った頃でした。
2010/1/13

ジャケット写真の掲載について
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
今回はジャケット写真の掲載について述べたいとも思います。今までこのブログで、私が実際に制作に携わったジャケット写真を掲載しておりましたが、権利関係の事を考えて掲載を取り止めました。ジャケット写真はレコード会社に所有権があります。私は、個人的なブログですしそして何より私自身が当時制作に携わった作品でしたので大丈夫と考えていましたが、私の友人でNHKの法務局に勤務している者から注意して調べた方が良いと言われ、現在中森明菜が所属しているユニバーサルミュージック経由で、当時所属レコード会社であるワーナーミュージック・ジャパンに問い合わせてみた所、やはり掲載は取り下げてほしいとの事でした。よって私の過去のブログに掲載してあったジャケット写真は残念ながら全て外すことにしました。みなさんもブロクなどで他人及び他社に権利がある写真などの掲載には十分に注意しましょう。
2010/1/8

中森明菜(4)
前回はニューヨーク空港でのハプニングを書きましたが、羽田空港でも同じような経験があります。彼女が私用でハワイ滞在から帰国する便が報道にバレてしまいました。私が羽田空港に駆けつけた時には、すでに報道陣がたくさん集まり、到着ロビーはごったがえしの状態でした。報道の方達は前述したように、イミグレーションの内に許可を取れば入る事が出来ます。私はもう一人同じレコード会社の人間と一緒にイミグレーションの内に入りました。しかし入り口が分からずに滑走路に出てしまいました。滑走路をよく見るともうすでに本人の搭乗している飛行機が着陸しており、ゲートに向かって地上を移動しているところでした。私達はやむなく飛行機を目指して滑走路を走りました。肉眼で見るとそう遠くには見えなかったのですが、実際に走ってみると、結構な距離があり息切れしました。飛行機の下に到着した私達は、タラップの脇にある階段を駆け上りファーストクラスに乗り込みました。すかさず本人を連れ出しゲートを降りてみるとすでに報道陣が円にな取り囲みられましたが私達はそれを突破しひたすら逃げました。正規なルートはすでに報道陣でいっぱいなので、裏口に回り迷いながらもなんとか本人を滑走路の脇に待機させてあったリムジンに乗せる事ができました。その後私は報道陣に囲まれ取材する事が出来なかった責任を問われ激しく怒られましたが、当時の上司が報道陣の方に対して頭を下げてもらい、なんとかその場はおさまりました。
滑走路を走った経験は後にも先にもこれが始めてでした。
2009/12/20

中森明菜(3)
引き続き中森明菜の面白いトピックスをお話します。
彼女が海外好きな事は以前にもお話しましたが、私と一緒に行動している時は良いのですが、たまに本人と別のフライトで、空港で落ち合うというケースがありました。その時はガードに大変でした。空港にはみなさんご存知のように、イミグレーションというものがありまして、そこから外は治外法権になります。よって免税店などの営業が可能になるわけですが、原則的に航空券を持ってイミグレーションにて、出国の手続きをしないと入る事が出来ないエリアです。唯一、報道とみなされた場合に特別な許可を得て入る事が出来ます。前にお話しましたように、感性豊かな反面、神経質な一面を持つ彼女はパパラッチなどの報道をひどく嫌っていましたが、一方の報道側はエスカレートする一方でとても困りました。よって空港で落ち合う時は場合は、むりやりイミグレーションを突破しなければならない時もありました。覚えている中でエキサイティングだったのは、彼女がシカゴ経由でトランジットしてニューヨークの空港で落ち合う時に、シカゴ空港でパパラッチされたとの情報が入り、彼女が数時間後にはニューヨークに到着する事が報道にバレてしまいました。パパラッチの行動はは早く、私がニューヨーク空港に着いた時には、すでに多くの報道陣が集まっていました。私は「時すでに遅し」と思い、ニューヨーク空港のイミグレーションに交渉して、このまま本人が入国すればパニックになると伝え、私自ら本人の搭乗しているファーストクラスの座席まで乗り込む必要があると説得しました。その時イミグレーションが出した条件は、もしターゲットが私を認識しなければ、イミグレーション違反で逮捕すると言われました。彼女は時にはきまぐれで、はたして私を見つけた時にすみやかに反応してくれるか不安でしたが、もう間もなく本人は到着してしまいます。迷っている時間はありません。私はOKと了承して、彼女の乗っているファーストクラスの座席へと、イミグレーション管理官2人に囲まれながら向かいました。割合とファーストクラスは空いていて、その時は素早く私を認識してくれて無事に入国する事が出来ましたが、もし彼女の機嫌が悪く無視でもされたら、私は逮捕されるところでした。もちろんパパラッチを避けるためにイミグレーションの裏口に用意してあったバンに乗り込み私たちは無事にホテルに直行しました。これが一度目のイミグレーション突破事件です。
2011/12/13

中森明菜(2)
中森明菜の制作担当になった私は、バークリーを卒業した経験から英語が話せましたので、数多くの海外レコーディングを行いました。中森明菜の場合は本人も海外好きなため、ほとんどがニューヨークでレコーディングしていました。その中からいくつか面白いエピソードをお話します。飛行機は当然の事ながら彼女はファーストクラス、新人の私はエコノミークラスでした。一度予定していたフライトにファーストクラスが無かった事があり、結論から言うと私たちは航空会社に交渉しファーストクラスを作ってしまいました。当時は週刊誌のパパラッチにいつも追われ、パパラッチ対策が大変でした。滞在するホテルは、スタッフ含め全員偽名でチェックインし、ホテルからスタジオへ移動する際は、正面玄関にダミーのリムジンを、時間差で裏口から私たちと本人はバンで移動しました。スターは誰でも同じように、彼女もとてもパパラッチを嫌いました。それでも映ってしまう映像には、いつも私が彼女の横に半分だけ映り込んでいました。彼女の気分は上下が激しく、ダウンしている時はホテルの部屋にこもりっきりで、食事も全てルームサービスを利用していました。私たちスタッフは全員、いつ彼女が外出したいと言い出しても対応できるように部屋で待機していました。そのためにスタジオを一ヶ月間予約していたのを全てキャンセルした事もあります。スタッフが「気晴らしにどこか食事でも行きませんか?」と聞いてもダメでした。そうかと思うと今度は一転してアップな時は「お買い物タイム」で大変で、これもダミーのリムジンを町のいろいろなコースを走らせて、こちらはまだ携帯電話が普及していなかったので、無線で連絡を取りながら移動しました。彼女の買い物は大量で、幾人ものスタッフが両手に抱えきれないほどの袋を持って歩かされていました。
彼女は音に非常に敏感で、レコーディングの際、こちらで音質を少し調節しただけで「さっきと違う」と反応します。当然録音エンジニアの選択もシビアで、ニューヨーク・レコーディングにはいつも山下達郎さんや大滝詠一さんなどを手がけたベテランの吉田保氏にお願いしていました。吉田保氏の独特なリバーブの使い方が気に入ったようです。
2011/11/22

中森明菜(1)
私はバークリー音楽大学を卒業し帰国した後、メシャーなレコード会社であるワーナー・パイオニア(現、ワーナーミュージック・ジャパン)に制作ディレクターとして入社しました。そこで私はいきなり中森明菜の担当を任されました。最初は4年間の留学で日本を離れていたため、日本の音楽事情が良くつかめずにいた私は、中森明菜を担当するという事がどんな事がピンときませんでした。そして間もなく私の初作品である「TATTOO」を発表しました。中森明菜はいわゆる天才肌で、時には非常に気性が激しく苦労しました。しかし、彼女のわがままには常に正当性があり、私たちスタッフはいつも負かされていました。例えば新曲を出す場合、何曲もの曲を集める事からはじめます。ある程度クオリティーのそろった時点で楽曲を本人に聞かせるわけですが、当時は作曲家のみなさんの録音機材などの事情により、デモテープの仕上がりは決して完成度の高いものではありませんでした。彼女は、そんなデモテープを聞いてもイメージが浮かばないと言い、私は本人に聞かせるデモテープを作るために、全ての楽曲を本番と同じようにレコーディングしなければならなかったのです。よって当時シングルA面B面の2曲を発売するのに最低7曲から8曲もレコーディングをしなければなりませんでした。こうして出来上がった楽曲を彼女はスタジオを借り切って1曲ごとに慎重に聞き、次の方向性を自分で判断していきます。曲さえ決まってしまえばヴォーカル・レコーディングは意外と簡単で、2~3回歌っただけてOKテイクが録れました。ジャケットやステージ衣装についても彼女のインスピレーションによるものがほとんどです。当時のトップアイドルのリリースは早く年間でシングル、アルバム共に2枚出すのが当たり前だったので、私は一年中スタジオにこもりっきりでした。
2009/11/15

フェンダー・ジャズベース
私はバークリ音楽大学在籍時代に何か一科目楽器のコースを取得しなければならず、私は最終的にベースで卒業した事をお話しました。
その時にメインに使っていたのが1971年製のフェンダー・ジャズベースです。
当時、学校の大ホールの音響のアシスタントをやっていましたが、ジャコ・パストリアス・バンドのPAアシスタントも経験しました。まだジャコ・パストリアスが元気だったころで、亡なったのはその後です。彼のトレードマークと言えばフレットレスのジャズベースでした。
その影響も少なからずあり、写真の楽器を所持する事になりました。私はサブに、アレンピッグの5弦ベース(フレット有り)を持っていたのでレコーティングや音程重視の演奏には、そちらを使いました。
ジャズベースはシリアル・ナンバー 645660 の1971年製のもので、最初は学校の掲示板で Sale を見て、たしか$500くらいで買ったと思います。後に当時NYに住んでいた事がある私の学友が、NYで私のベースを所有していた事があったとのエピソードがあります。購入した時のコンディションは非常に良く、特にネックの板目が良かったので、私は迷わずフレットレスに改造しました。学校の裏手に弦楽器専門のリペア・ショップがり、そこに持ち込みました。改造内容は、フレット指版を剥がし、新たに黒檀のフレットレス指版を張る、というものです。ついでにフレットも一音高く(長く)してもらいました。その後、自分でピックアップおよび電気回路をEMG社製に変え、ブリッジもバタス製に取り替えました。その結果、実にすばらしい音色とアタック、サスティーンのかかりかた、申し分無い楽器に仕上がりました。学校ではよくジャムシェッションをやったり大活躍でした。アレンピッグの5弦ベースは手放してしまいましたが、シャズベースは今だに部屋のすみに飾ってあります。
2009/11/6


フェンダー・ジャズベース
フェンダー・ジャズベース

アメリカ留学時代の事
私は1981年に生まれ育った地元の県立高校を卒業し、大阪芸術大学音響工学部に入学しましたが、あまりにもつまらなかったため一年で中退し、ボストンに渡米しました。
最初は全く英語が分からなかったので、語学学校に通う事からスタートしました。しかし英語は予想外に早く理解出来るようになり、無事にバークーリ音楽大学に入学しました。
入学してから3ヶ月間は基礎コースを選択しなければならず、それをパスした後に専門コースへ進みます。私はエンジニアー/プロデューサー学科を専攻したのですが、そこで始めて専門用語が飛び交う授業に英語の壁を感じましたが、何とかそこを乗り越え、前回のブログでお話したライブ録音のアルバイトを通じて知り合った数多くの優れたミュージシャン達のおかげで、プロジェクトの成績は常にトップでした。
ボストンは大変美しい都市でした。しかし、現在と比べドルは高く、治安も現在のように良くはありませんでした。夏は湿度がなく爽やかでしたが、冬は非常に寒く、気温はマイナス20度、そこにストームと言われる吹雪になると、体感温度マイナス50度になります。
私のキャンパスライフ後半は、都心から路面電車で20分ほどの郊外のアパート最上階のワンフロアーを、3人でルームシェアーして、のどかに暮らしていました。バークリー音楽大学を卒業するためには、専門コース以外に必ず楽器演奏のコースを終了する必要がありました。最初に私が選んだのは中学生の頃からはじめたギターを選びました。しまし、すぐに世界の壁に驚愕しピアノに変更しましたが、なかなか成績がのびず最終的にはベースで卒業しました。バークリー音楽大学の良いところは、何と行っても世界中の優れたミュージシャン達が集まっている事です。私は、彼らのおかげで多くの大変有意義な時間を過ごす事が出来ました。
あっと言う間に4年間が過ぎ、無事に1987年に卒業しました。私の同期の卒業生で今だにアメリカに残って生活している仲間もいます。私は、卒業してから半年ほど録音の仕事を続けた後9月に帰国しました。
2009/11/01


バークリー音楽大学
バークリー音楽大学

私のライブ録音のルーツについて
それは私がボストンのバークリー音楽大学に留学していた頃の話です。当時はお金がなくて始めたバイトがライブ録音でした。バークリー音楽大学では生徒達による自分たちのリサイタル・コンサートが毎日2ヶ所で2回、計4回行われていました。私はそれを依頼を受けて録音していたのです。それが意外と評判が良く、忙しく働いていました。当時はまだカセットテープの時代で、雪の中カセットレコーダーとマイクを苦労して運んでいた事を覚えています。一回の録音、編集作業を$20でやっていましたが、当時一枚$1のピッザを食べて生きていた私には十分な収入でした。
それが私のライブ録音のルーツです。当時私はエンジニア/プロデューサー学科を専攻していましたが、本業のいろいろな授業のプロジェクト制作に、ライブ録音によって知り合った優れたミュージシャン達に参加してもらい、おかげで大変良い成績をもらった事を記憶しています。
2009/9/26

はじめまして
有限会社ビアンドール代表取締役の平井哲之と申します。
まずは自己紹介から始めさせて頂きます。
私は1982年に大阪芸術大学音響工学部を中退し、アメリカのボストンに留学しました。最初は語学学校に通い英語を勉強した後、バークリー音楽大学のエンジニア&プロデューサーの学科に入学しました。
いろいろとありましたが、何とか無事1984年に卒業しました。
帰国後、大手レコード会社の制作ディレクターを勤め、中森明菜やT-SQUAREなど、数多くのアーティストの録音を行って来ました。
また、その間に数多くの海外録音も行いました。
そして、2003年4月1日に弊社、有限会社ビアンドールを設立に至りました。
主に、アーティストのスタジオ録音、コンサートのライブ録音などを手がけて来ております。
この度、録音機材を新たに増設したことを機会にホームページを開設いたしました。
コンサートの録音、CD制作はお任せ下さい。
みなさま、どうぞ宜しくお願いいたします。
2009/9/17
 


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